母に捧げるレクイエム(Requiem:鎮魂曲)
私は昭和16年11月12日、満州奉天で生まれた。昭和22年3月15日大連より引き上げて、熊本の地に帰省した。そこから、私の歴史は始まっている。 昭和23年4月大津小学校へ入学し、大津中学を経て、大津高校を昭和35年3月卒業。 当時、製鉄業は花形であり、八幡製鉄が九州でも憧れの会社だったこともあり、わたしは熊本大学工学部金属工学科への進学を目指したが受験失敗、昭和36年3月再チャレンジ失敗、昭和37年3月ワンランク落として、熊本大学理学部物理学科に変更しようとした時に、その一言が発せられた。 「あんた、なぜ初心ば達成しようとせんのか。そぎゃんことばしよったら、人生には勝てんばい。落伍者になってしまうぞ。考え直しなっせ。」 その言葉で一念発起した私はその後、 昭和37年3月熊本大学工学部金属工学科受験、合格。 昭和37年4月入学。昭和41年3月卒業。 昭和41年4月、寿工業入社。電炉製鋼の世界に入る。 昭和48年1月末、寿工業退社。 昭和48年2月、清本鉄工入社。 昭和62年9月、清本鉄工退社。 昭和62年10月、大谷製鉄入社。 現在に至る。 4人兄弟の3番目で一人息子の私が、住み慣れた九州での勤務先からこの大谷製鉄へ移ることを決めたとき、母はきっと引き止めるだろうと思っていた。しかし母から出た言葉は、「私たちもこの地をはなれ、満州へと渡ったんだから、反対はせんけん。頑張りなっせ。」だった。 昭和41年3月から平成18年4月までの40年間電炉製鋼一筋に歩んできました。平成15年には待望のワンスラグ操業法を完成させ、一流の製鋼マンになることができた。 熊大工学部を諦めようとしたときの、あの母の一言が現在の私をつくってくれた。あれ以来、いろんな苦難にも遭遇し、大きな決断を迫られることも多々あったが、一度も逃げずに戦い抜いてきた。 その母も父の後(平成6年12月24日:85才)を追うように平成8年1月9日、83才で他界していった。 『母上様、ありがとうございました。』