私の趣味
協力会社 ハンドルネーム がいもも(60代:男性)
私は、55歳の時、軽い気持ちで「般若心経」を覚え始めました。般若心経には素晴らしいことが書いてあるらしいので、覚えれば何か「ご利益」が有るかも知れないという邪な気持ちも、今思えばあったなぁと思っています。 般若心経を覚える為に、通勤する時はいつもカーステレオで般若心経のCDを聴きながら走りました。車内は「お経」と「がいもも」(※)の音が響き渡り、まるで「お寺の中」状態でした。しっかりと覚えるまで、なんと一年以上掛かりました。 後から分かったことなのですが、私の家の宗派は浄土真宗です。般若心経は禅宗のお経で、浄土真宗では般若心経は唱えない事を知りました。どっちみち、私は熱心な仏教徒では無いので、あまり気にしないで般若心経を唱えていました。 ろくなことが起きないのは何故か? ところが、般若心経を覚えてから「ろくなこと」が起きませんでした。違う宗派のお経を唱えたからバチが当たったのかも知れないと、浄土真宗のお経も覚えることにしました。そして再度、長い年月を掛けて「重誓偈(じゅうせいげ)」と「讃仏偈(さんぶつげ)」という、浄土真宗の「お経」を二つ覚えました。結局、約六年も掛けて三つの「お経」を覚え、浄土真宗の「お経」と禅宗の「お経」の「二刀流」になりました。しかし、相変わらず私の人生は「ろくなこと」が起きませんでした。 今までは、「お経」を唱えることで少しでも良い事が有るようにと「ご利益」を期待していましたが、考え方そのものが間違いであると気づかされました。お経を唱えてご利益を期待するから「ろくなこと」が起きないのであって、本来の正しい唱え方は、「ご利益を期待することではなく、今現在の状態に感謝をして読経をすること」だと解りました。 そもそも「お経」は生きている人の為の説教ですが、仏壇の前で仏様に説教すれば「ろくなこと」が起きないのは当たり前のような気がします。 せっかく覚えた「お経」なので、今でも通勤中は車の中でカラオケ感覚で気軽に「お経」を唱えて走っています。日常生活では「無の境地」になれる時間はあまり無いと思います。運転中にお経を唱えていると、「お経」と「運転」の二つだけに心が集中できるので、雑念が消えて無の境地に近付いてストレス解消にもなっているのです。 これからは、少しでも良い事が有るようにと「お経」を唱えるのではなく、「感謝」の気持ちを忘れないようにしたいと思います。 ※がいももとは 正式名称を「けいす」と言い、寺院用の大きな「おりん」のことを指す。仏事の道具。