社会人50年(回顧)
福井営業所 ハンドルネーム ディバーマン(年齢不詳・男性)
タイトルを挙げたものの、考えるのが苦手且つ無精者な事から、記憶が未だ鮮明な内にと思い、この50年を振り返って思うままにしたためてみることとします。 私は、昭和44年学卒後、知人の紹介で大阪の某鋼球メーカーに入社し、社会人としてのスタートを切りました。小さな会社でしたが、大手メーカーに次ぐ3大スチールボールメーカーで、約一ヶ月の現場研修後、輸出部に配属され、日々の仕事内容は、インボイス(送り状。船積み書類の一つ)作成や、輸出に必要なL/C(信用状)やB/L(船荷証券)を用意すること、銀行、関連の領事館での査証取り、乙仲(海運荷物業者)、商社廻りなどでした。 初めは、近鉄バスで阿倍野駅に出て、御堂筋線、堺筋線の地下鉄や阪神電鉄に乗り換えるという毎日を過ごし、軽車両を与えてもらい移動が楽になったのは4〜5ヵ月後のことです。翌、昭和45年春にスタートとなった“大阪万博”に合わせて、御堂筋や他の主要道路が南北、北南に向け一晩で交互に一方通行となり戸惑ったことは今も覚えています。万博は、経済学者で経済企画庁長官も務めた堺屋太一さんがメインプロデュースして成功を収めています。知っての通り有名な造語の「巨人・大鵬・卵焼き」や、後の「団塊の世代」を作った方としても有名な方ですね。また、同、昭和45年秋には、例の三島由紀夫事件が起きました。学校の後輩が盾の会会員だったこともあり、商用で堺市に向かう車中ラジオで知った時の衝撃は記憶にあります。 50年の社会人人生を振り返って 個人的な事情により昭和46年10月に退社し福井に戻りましたが、在社中は、先輩に商用英文や他で怒られながらみっちりOJT指導を受けました。一方、神戸の方へ時々飲みに連れて行ってもらったことなど、公私に渡り大変お世話になりました。その後、昭和47年1月に縁あって福井市内の鋼材を主とする特約店に途中入社し、今の会社、大谷製鉄に入社する平成21年3月までの37年間勤めました。鋼材仕入課に配属され、建築・土木資材に精通していた一回り上の先輩からいろいろ教えを乞いつつも、やはり鉄筋は建築資材販売の呼び水である事から、本格的な在庫拡充の必要性を感じ鉄筋倉庫を構えるに至りました。その後、仕入・販売の内勤主体から本格的な営業に回り、鉄骨材・鍛圧機械を販売しながらも鉄筋だけは継続販売し続けました。 後に縁があって、平成21年3月から今の大谷製鉄に入社して今日に至ります。思えば社会人になったS44年から現在で49.5年が経ち、来年3月で丁度50年になることを機に、思うままの経緯を書いた次第ですが、つつがなく今日までやってこられたのは、無論これまで関わってきた回りの数多くの方々や家族のサポートが有ってこそ、との思いは否めません。全てにおいて感謝しきりです。