2/5「プロ野球の日」
製造部圧延課 ハンドルネーム スラッガー(30代・男性)
3歳上の兄が小学校の野球チームに入っていたこともあって、保育園の頃から野球をやっていました。家の横に、田んぼ1枚分くらいの空き地があるのですが、兄と、父と、2歳下の弟も一緒になって、やこてんボール(柔らかいゴムボール)で投げたり打ったりしていました。 私が通っていた氷見の小学校には、当時はほとんどの小学校に野球チームがあり、私も3年生になると自分が通っていた小学校の野球チームに入部しました。背番号をもらった人しか試合には出られないのですが、野球を始めたのが早かったこともあり、私は4年生から背番号をもらって試合に出ていました。 6年生の春に野球肘になってしまい、医者からは「ボールを投げてはいけない」と言われ、ずっとリハビリを行っていました。えんぴつで字を書くのも痛い状態。同級生たちが活躍する姿を横目で見ながら、試合に出られずとても辛かったのを覚えています。右手が使えなかったので、左手一本で素振り練習を続けていた私に、監督が「難関突破」と書いたお守りをくれ、励みにしてずっと練習を続けていました。そして迎えた最後の大会、監督が試合に出してくれました。私が打った球は、今まで打ったことの無いような特大のホームラン!!!私たちの小学校のチームは、だいたいいつも氷見市内で2位か3位、優勝は出来なかったのですが、その大会では、いつも常勝の強豪校を破ることができました。結局、そのあとの試合で敗れてしまい、結果は3位でしたが、このときのことはとても嬉しかったのを覚えています。
地獄のトレーニングの日々
中学校にすすみ、野球部に入部しました。氷見の小学校が7〜8校集まるこの中学校は野球部の人数もものすごく多く、最初の1年間は草むしりなどの雑用と、とにかく走ることで終わっていきました。中でも、毎週土曜日の「10キロロードワーク」がとにかく大変でした。海に近い場所にある私たちの中学校、10キロロードワークのコースの中には、学校周辺のランニングの他に、砂浜でのダッシュが組み込まれていました。練習後に足がつることもしばしば。本当に地獄でした。でも、とにかく上手くなりたかったので、家でも素振りをしていました。肘のせいで投げることはあまりできませんでしたが、打つ方は誰にも負けないようにひたすら努力していたのです。2年の秋に新チームになってから、4番バッターは誰にも譲りませんでした。私たちの2年上の先輩の代は全国大会に出場、1年上の先輩の代は中部日本大会で優勝するなど、輝かしい成績を残しましたが、私たちの代は県大会2位が最高。射水市のとある中学校がとても強く、勝つことができませんでした。 3年生の冬、引退してから肘を手術しました。高校に行っても野球がやりたかったんです。 スポーツ推薦で氷見高校に入りました。もちろん野球部に入部。しかし、中学校までは軟式球でしたが、高校からは重たい硬式球に変わり、ボールを投げるとまた肘に痛みが出るようになりました。打席に立たず応援することが増え、「このまま応援だけを続ける部活生活なのかな…」と思い、部活を辞めました。 それからしばらく野球からは遠ざかっていました。
でもやっぱり…野球っていいですよね!
社会人になってからしばらくして、中学校の時の野球仲間から「草野球の試合をするんだけど、人数が足りないから助っ人で来てくれないか?」と頼まれ、久し振りにバットを振りました。打球はどんどん伸びていき、思いがけないホームラン。自分でもびっくりしましたが、久々に爽快感を味わうことができました。 会社でも野球部に入っています。最近は活動できていませんが、やっぱり野球はいいですね。でも、あまり体を動かしていないせいか、体重が増えてしまい、昔のようには走れないなぁ…と感じています。 もちろん、プロ野球を観戦するのも好きです。シーズン中は、スマホからリアルタイムで動画で試合を視聴しています。少年時代からずっと好きなのは清原和博元選手ですね。素晴らしいホームランバッターで、高校1年生から甲子園に出場、甲子園で13本ものホームランを打ったという記録は、この先破られることは無いのではないか…と思っています。 また、監督では、栗山英樹元監督が好きです。選手がなかなか良い成績を残すことができなくても、一度期待したら諦めることなく期待し続けてくれるところが良いなと思います。選手が結果を出したら泣いて喜ぶというのは、プロの監督では珍しいのではないかなと思います。残念ながら2021年11月に日本ハム監督を退きましたが、4年に一度のWBCで監督を務めることが先日発表されました。活躍が見られることを今から楽しみにしています。