6月21日(日)父の日
敷設課 ハンドルネーム bB117(50代後半・男性)
父が亡くなったのは30年前、私が29歳のときだった。訃報を聞いたとき、私は、カタール(注1)にいた。前の会社の仕事で、現地就任3か月目のことだった。 悲しみに耐えながら急いで帰国することにしたが、当時の状況ではまず、無事日本に帰れるか心配だった。現地の空港は、機関銃を持ち、身体に銃弾を巻きつけた警察官が立っているという異様な雰囲気だったからだ。それくらい治安が悪かった。 ドーハ(注2)からバーレーン(注3)、台湾を経由して、ようやく山口県宇部市の実家に到着したのは、知らせが入ってから何日も後のことだった。家族は私が帰国するまで、葬式を待ってくれていた。 山口県の実家は漁業をしており、父は瀬戸内海で漁師をしていた。新鮮なワカメや魚、蛸、冬には底引きで天然ガキを取って生計を立てていた。 私は高校を卒業するまで、地元の皆との遊びや野球のクラブ活動に熱中しており、漁が忙しい父と一緒に遊んだりどこかへ出かけたりした思い出はあまりない。当時は、中学を卒業して漁師になれば儲かる時代で、私の家も、兄2人と私、そして弟1人の計4人の息子が漁師の道にすすめば家計も安泰だった。けれども父は、多少苦しくても好きな酒を控えて仕事に励み、「これからは、学問が大切だ」と、4人兄弟全員を高校進学させてくれた。自分の漁の都合より、子供の将来の幸せを考えてくれる父親だった。 駅のホームで見た涙 そんな父の思いを受け、私は公立の工業高校に進学し、恩返しするために勉強に励んだ。そして、兄弟4人とも高校卒業後は就職した。私以外の兄弟は皆高校卒業後、山口県内の宇部興産に就職し実家生活だったが、私ひとりが県外に出た。 私は神戸製鋼に入社するため、卒業式の3日後に単身神戸へ出発した。夜行列車を待つ駅のホームで、見送りに来てくれた父の目には、涙が浮かんでいた。神戸で一旗揚げて、故郷に錦を飾りたいと強く思った。 神戸に住んでいる頃は、地元から出たことのない両親を呼び、有馬・六甲山にある会社保養所を利用して市内観光したり、温泉に連れて行ったりした。休暇で私が実家に帰ったときは、父と一緒に九州の温泉めぐりに出かけた。 一方母は、現在92歳で山口県の実家で元気に暮らしている。母の面倒は、同じく宇部の兄弟たちがみてくれている。私は、周防大島という島に家を構え、近くにある妻の実家を行き来している。母親、妻の両親が健在であることに感謝している。昨年の9月より富山暮らしを始めてから、地元に帰ったときにはよく父の墓参りに行くようになった。父に近況を報告した後、実家に母の顔を見に行くのがお決まりのパターンとなっている。生前、父と一緒に各地へ旅行したことが、今になっての何よりの思い出となっている。
(Wikipedia から引用) 注1:カタール・・・正式名称カタール国で、中東・西アジアの国家。首都はドーハ。アラビア半島東部のカタール半島のほぼ全域を領土とする半島の国。ペルシア湾に面する。南はサウジアラビアと接し、北西はペルシャ湾を挟んでバーレーンに面する。 注2:ドーハ・・・カタール国の首都。 注3:バーレーン・・・正式名称バーレーン王国。通称バーレーンは中東・西アジアの国家。首都はマナーマ。ペルシア湾のバーレーン島を主島とした大小33の島から成る島国である。バーレーン島北部にはオアシスがあり、そこからエデンの園はバーレーンにあったのではないかと言う人もいる。1994年以後、国民の大多数を占めるシーア派による暴動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって首長独裁体制から湾岸地域初の立憲君主制へ移行した。