地元の風景今昔
製造部圧延課 ハンドルネーム トネリコ(60代・男性)
「戦後」が一段落し、高度経済成長に向かい駆け昇っていく昭和30〜40年代、最近の中高年が「日本の古き良き時代」と呼ぶこの時代に、私は幼年期から中学卒業までの少年期を過ごした。 私が生まれ育ったのは旧新湊地区の片口という水郷地帯だった。下条川(げじょうがわ)水系のこの地区は、江戸時代から明治にかけて、放生津潟―小杉間の水運で栄え、大江地区の灌漑用水や老田地区、下村の排水路など、水路が張り巡らされていたという。私の物心が付いた頃は、舟運もだいぶ廃れたと聞いたが、それでも舟は生活の必需品だった。 近所のほとんどがかやぶき屋根の農家で、中には囲炉裏や土間風の作業場があり、農閑期ともなると、毎朝早くから近所のお年寄りたちが囲炉裏のまわりに集まって茶を飲み、笑い声をあげていた。小学校1年生頃までは水道も通っておらず、井戸水をポンプでくみ上げて使っていた。夏は冷たいので、飲み水としてもおいしく、瓜や野菜を冷やすのにもってこいだった。冬は暖かく洗い物にもありがたかった。 学校から帰ってからは、家の中で遊ぶことはほとんどなく、友達と外で暗くなるまで遊んでいた。家の中に“おやつ”などはなかったので、友達と一緒に庭の柿の木や畑の野菜などをもいで食べた。新湊市(当時)指定天然記念物(昭和51年認定)の“水島柿”は、200年以上前に片口村の前川弥三郎が選出・改良した品種ということで、当時の片口村にはどの家にも水島柿の木が3〜4本はあった。 人も農具も舟で 農作業のスタイルも今と比べると全然違う。今はトラクターやコンバイン、精米機など機械を用いての作業が当たり前だが、昔はすべて手作業だった。しかも我が家の田んぼは近くだけでなく離れたところまで10ヶ所にも点在していた。 水郷地区というだけあって、集落の家の前には幅5〜6mの川が流れており、対岸にある道路へは橋を渡っていく、そんな風景だった。水路が多いため、川べりを自転車で走っていてよく川に落ちて怖い思いをしたものだ。 農繁期になればどの家も家族総出で作業をした。特に田植え、稲刈りの時期には私と姉も借り出されて家の手伝いをした。学校から帰ってきたら田んぼに直行、日曜日などは丸一日農作業だ。作業しながら友達の遊んでいる姿をみてうらやましく思うこともあったが、暗くなるまで任せられた仕事をやっていた記憶がある。 父と母が田んぼに出て稲を刈り、姉と私が稲を運び天日干しする役目だった。田んぼの周りのあぜ道には“トネリコ”と呼ばれる細い木が等間隔で植えられており、その幹に縄を張って、稲の束ひとつひとつを手作業で“はさがけ”した。やはり実りの秋の収穫作業であるだけに、両親も私たちも、なんとなく浮き浮きしていた記憶がある。あとは、川を渡るときに農具を舟に乗せるのだが、舟にくくりつけたロープを対岸からひっぱって移動させる作業も手伝っていた。 昭和41年に富山新港ができて、水郷地帯特有の風景も次第に消えていった。時代のテンポでもあり、効率化、合理化を求める中で作業のかたちが変化し、それに伴い風景や生活様式も変わっていった。電柱は木製、舗装されている道路などない時代から、電化された家屋、舗装道路、子供の遊びなど、今は別世界だ。子供の頃は何をするにも今より不便だったが、ゆったりしたテンポの中に家族の支えあいや地域の活気、気持ちの通い合いがあった。そんな意味で「いい時代だった」と思う。