7/29「アマチュア無線の日」
技術企画室 第1級アマチュア無線技士JP1DMV/9 姫本 次朗
今の時代ではアマチュア無線とは、ずいぶんオタクでマニアックな趣味のように思う方が大半であろう。これからの話は、かれこれ40年以上前、大阪万博が開かれ、歌謡界では『黒猫のタンゴ』や、宇多田ヒカルの母さんが『圭子の夢は夜ひらく』と『女のブルース』を大ヒットさせた時代から始まる。当時のアマチュア無線は、今でいうスマートホンと同様な、時代の先端の趣味(道楽)であった。 簡単に手に入らない…だから生み出す 私がこの世界に入るきっかけは、小学校4〜5年の頃、アマチュア無線の教科書を学校に持ってきた友達による。私も親にねだり、無線工学の教科書(字と計算式ばかり)と送信機の概念なる本を買ってもらった。その本にあった製作記事の送信機を何とか作ろうと、家の東芝製ラジオ(今では、結構骨董価値があるらしい)を解体し、部品取り製作に取り組むも、小学生の私には手には負えず、やむなく断念することに。しかし、開発研究や物の仕組みの基礎は、そこで学んだような気がしないでもないが…。 中学校に入学し、学校のアマチュア無線クラブに入部した。(高陵中学の当時のコールサイン(※)はJA9YJXである。)先輩が学校のトランシーバーで、高岡市から九州や北海道と交信するのを目の当たりにし、遠くの人と話が出来ることの不思議さを感じ、自分でもやりたいと一気にのめりこんでしまった。 当時、同級生の仲間は、すぐに無線通信機器メーカーである八重洲無線やTRIO(今のKenwood・昔の春日無線)の無線機を買ってもらっていたが、我が家では子供の創作性を伸ばすためかケチなのかは定かでないが買ってもらえず(当時でも、無線機は10万ぐらいした)、毎日無線機の製作本を穴が開くほど見ることが背一杯で、仕方なく解体屋さん通いを始めたのである。そして、解体屋さんでテレビやラジオの真空管(今の子は知らんだろうな)を頂き、使えないガラクタ受信機や送信機を自作する日々を送ることになる。実のところ「CQCQ。」と話すことより、自分で無線機を作る方が好きなアマチュア無線家になったのは、このころの影響であるに違いない。 通信や電波を身近に感じてもらいたい 大学に入学し、気持ちはアマチュア無線から車!車!車!へ…。特にRally(ラリー)に夢中になってしまった。しかしながら、夜な夜な峠に出没しダート走行(未舗装の道を走行すること)するのに無線の有用性を感じ、アマチュア無線とは、またなが〜い付き合いとなった。 その後、就職・結婚・転職して尚、細く長く付き合っているが、横浜市戸塚区に引っ越した時に、戸塚アマチュア無線クラブに入会することになる。このクラブは、昭和46年、当時の飛鳥田横浜市長命により、災害時に於ける各区行政・地域防災拠点間の通信ネットワーク構築を目的としたボランティア団体の戸塚支部である。戸塚区内には、35カ所の地域防災拠点が有り、区役所間との通信確保をデジタル防災無線(行政無線)の他、我々のアマチュア無線を使用し確保している。私は、ここで会長を務め、毎年20か所弱の防災訓練に参加し非常通信訓練を行っていた。 その他、昨年のクラブ会長退任まで、総務省の情報通信月間行事に参加し、『とつか絆・草の根ネットワーク 《「安心・安全を無線通信でつなぎます》』をテーマに、アマチュア無線の技術を通じ、多くの活動を行ってきた。 それが、下記活動などである。
また、地元商店街の納涼祭へ参加し、子どもたちに実際にアマチュア無線というものを体験してもらう事もあった。通信や電波を身近に感じることにより、また、不思議と思う心を持ってもらうことにより、子供の工学離れに少しでも役に立たないかと地域に密着した活動を行って来た。 これからは高岡・射水に腰を落ち着け、子供の頃に育った地元にお世話になる。人は、人により生かされており、地域に活かされて生活させてもらっているものだと思う。今後もアマチュア無線をベースに、地元に根付いた防災ネットワーク構築やコミュニティ活動を進め、貢献して行きたいと思っている。
戸塚アマチュア無線クラブ当時の活動風景