深夜放送に耳を傾けて
製品加工部 ハンドルネーム Juha Himenen(60代・男性)
ラジオが現代の携帯電話のように情報最先端機器としてもてはやされたのは、民間ラジオ放送が放送されはじめた1950年頃で、さらに1960年頃からはラジオがそれまでの真空管式からトランジスタ式となり、小型・軽量化・モバイル化され1人に1台の時代になった。この頃がラジオの最盛期であったらしい。 小生がラジオを聞き始めたのは、ビートルズやサイモン・アンド・ガーファンクルが解散(1970年)して間もない、小学校5年か6年の頃だったと思う。(小学生の小生には彼らの解散を知る由も無かったが。)当時富山ではFM放送はNHK-FMしかなく、洒落た番組はなくクラシック中心だった。小生は兄のラジオ講座用ラジオを拝借し、KNB(北日本放送)の深夜放送をよく聞いていた。中でも楽しみにしていた番組は、ニッポン放送の『ミュージック・イン・ハイフォニック』や、0時30分からの文化放送の『セイ!ヤング』、KNB独自制作の深夜番組『ミッドナイトジョッキー』などだった。『ミッドナイトジョッキー』は、ローカル局のアナウンサー(越前修アナ、池田勉アナ等)がパーソナリティーをしており、二人の「ローカル自虐ネタ」とも言うべき丁丁発止がなんとも小気味よく、小生は眠いながらも楽しんで聞いていた。
学校では教えてくれない“世界”
中学からは、ラジオ講座で自宅学習するよう学校から指導が有り、同級生各自は当時の流行のラジカセラジオを買っていた。おそらく、このころから深夜放送を聞きながらの学習に走った輩は多々いたものと思われる。当時の中波放送(AMラジオ)での東京キー局の深夜放送は、文化放送の『セイ!ヤング』(オープニングテーマの『夜明けが来る前に』、挿入曲の『move over』が流れると胸が躍ったものだ)、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』(今も同じかな)、TBSの『パックインミュージック』など。この頃のKNBは、まだ在京局の全国放送の配給を受けておらず、何とかして在京局の深夜放送を聞きたかった小生は、屋根の上に上がり自室まで銅線を這わせてアンテナ工夫をしていた。 折しもこの頃から、BCL(Broadcasting・Listening)が流行し始める。BCLとは、放送(中波放送の他、短波帯を使用した国際放送)を受信して楽しむ趣味の事である。短波帯とは、周波数の高い電波の事で、遠くまで電波を飛ばすことが出来る。リスナーは、自国の国境を跨ぎ異国の文化や情報を取得することが出来るので、こぞって国際放送を聞くことが流行していた。家電メーカーからは、SONYのスカイセンサーやPanasonicのクーガ、三菱ジーガムなど、青少年が憧れる高性能ラジオが発売されていた。ちなみに小生は買ってもらえず、真空管で短波ラジオを自作して聞いていた。 海外放送の一例をあげると英語放送イギリスの「BBC」、ドイツの「ドイチェ・ヴェレ」、「ラジオオーストラリア」、エクアドルの「アンデスの声」、北京放送などなど、国際色豊かに楽しむことが出来たのである。ただ、短波のラジオの電波に国境は無く、思想・宗教が違う国家へも飛び込んで行くため、短波放送は、この時代の背景にあった米ソの東西冷戦のイデオロギー対立のプロパガンダに大いに利用されていた。ある意味この頃の短波放送は世界中の国々の特色ある情報を楽しめ、中学生の小生にとって、世界を知るには面白かったような気がする。その後、東西冷戦は、東西ドイツの統一とソ連の解体により終わりを迎える。同時にBCLも下火になり、そしてブームも終焉を迎えることとなる。昨今の短波放送は、ダイヤルを回しても中国の放送が大半を占めており、かつての国際色豊かな賑やかさは無くなったように思う。
ローテクだからこその頼れる情報源
現在では、新たなプロパガンダには、「Facebook」や「Twitter」、「Instagram」など、ビジュアル的な情報ではTVやYouTubeがメインに取って代わっているが、ラジオには大切な役割が有る。小生は、東日本大震災3.11を東京の出先で経験したが、地震などの有事では携帯電話は繋がらず、出先での情報は得にくい環境となった。実はこのローテクなラジオがローテクであるがゆえに小回りが利き、情報源として大事な役割を担っているのである。 最後となるが、当時の少年が今ではオヤジやジイサマに姿を変えているが、心だけは昔のラジオ少年のままであり、ラジオから聞こえた、ラジオが教えてくれた、煌びやかな都会や外国への憧れの記憶は消えることはない。